土蔵の二階にある酒母室から月山のなだらかな半円形の真白ないただきが見える。反対の窓からは樹氷の蔵王山の平らかな頂上が望まれる。日本三大急流の最上川は村山平野を少し急いで日本海に下って行く。出で湯と将棋駒の天童市は,また桜桃、林檎、桃、葡萄等、日本有数の果樹地帯、そしてササニシキの産地は今、次代の米「はえぬき」に取り組み始めている。
仲野家の先祖は近江商人だったという。行商の小商人が土着し飴屋を営んだという。質素勤倹を家訓とする商いは。何代か後にはこの地方切っての地主にのし上がっていた。一族の分家にはかつて三つの酒造家があった。昭和18年の企業整備時、一番新しい分家で、造石三百石と最も小規模の出羽桜ただ一軒が、この管内で唯一残るのを許された。
初代仲野清次郎は今はない熊正宗醸造元仲野清五郎の次男として安政5年に生まれ、長じて明治26年独立、分家酒造業を興した。醤油屋になれとの親の勧めを振り切ってのことだ。末裔とは言え、近江商人の血が、単なる独立に飽き足らず、親、兄と競合する道を選ばせたのか。彼は初代社氏富樫堅吾を醸造試験所に遊学させ技術を習得させた。また、二代目清次郎をも醸造試験所に学ばせ。灘の大関酒造でも修業させた。元試験所長の山田正一博士達が青年学徒の頃だ。潤沢な資金のない創世紀の事だ。品質志向の当社の伝統はここに始まった。
二代目清次郎は性篤実で人望が厚く。山形酒類卸協同坦合の設立に奔走し初代常務理事を勤め、また山形酒造祖合の理事長を長年勤めた。自ら自転車を駆って近隣の市町村の酒販店を廻り販路拡大に努め、設備を拡充し、現工場の基礎を創り上げた。
三代目清次郎は襲名前の名は醇一。東京農大農芸化学科で醸造学を学ぶ。彼の醸造実習は信川諏訪の銘醸蔵「真澄」に始った。終戦直後「真澄」は品評会の上位賞を総嘗めした。進取の蔵元宮坂氏は7号酵母を発見し、名人杜氏窪田千里を育て上げた。それまで諏訪地方の蔵には広島から杜氏が来ていた。宮坂氏と窪田社氏は広島の杜氏を越えるべく努力を重ね、遂に世の銘醸蔵を尻目に全国新酒鑑評会及び全国品評会で一〜三位を独占した。醇一は何度もこの銘醸蔵を訪ね教えを請うた。物資の圧めて少ない終戦時、造る先から売れる時代、酒質に命を掛ける人達との出会いは本当に驚きであった。彼は自分の酒造りの師匠は故窪田千里杜氏であると言う。また酒造りの哲学を宮坂氏に学んだとも。後に一人息子、現社長に、「益美」の名を付けたほど心酔した。
彼は酒造りは結局のところセンスだという。彼の言うセンスとは、目先の感覚でなく、もっと奥の深い心の揺れを指す。
彼は学生時代から「荒地」の同人として現代詩を創り、帰省してからは山形の文学界の人達と深く関わり、土着の詩人故真壁仁とは持に親交厚かった。今地元の山形新聞の広告は、彼の詩を載せただけのものである。ほとんど宣伝臭のないユニークなもので、地方の広告文化に貢献したかどで、昭和62年特別広告企画賞を頂いた。
また素朴な庶民の哀しい温もりのある李朝の陶磁工芸品に心を揺さぶられ、学生時代から収集し続けた。それらを展示する財団法人出羽桜美術館を昭和63年に創設した。
出羽桜は地元の蔵人が、地元の米と水で造り、地元の人に飲んでもらう地の酒であることを命じ続けてきた。そんなことからか、地元産業への貢献に対し平成元年度山形産業賞を受賞した。酒造業では唯一社だった。
前述富樫堅吾の息子が前杜氏工場長富樫広太、故杜氏日野英二の妻は広太の妹だ。約一世紀初代より現杜氏まですべてここの地縁血縁の人達だ。彼達の力で、東京農大ダイヤモンド賞、全国鑑評会金賞受賞を重ね。東北の鑑評会入賞の常連になった。その技能は若い人達に受け継がれる。
東京農大醸造学科卒現社長四代目益美は、名のごとく銘醸への思い入れ深く、蔵人と一緒に、そして若い技術者達の先頭に立って酒造りに勤しんでいる。吟醸酒、純米酒、生酒など世のニーズに合ったものを志向しつつ、更に新商品の開発に取り組んでいる。
そして全社員あげて、出羽桜が何時までも陸奥の品位を守れるよう精進する決意をしている所である。
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