歴史

白梅と出羽桜

創業当初は、白梅を主に製造しており、出羽桜は一部の高級酒のみに使われていた銘柄名でした。

白は米を表し、梅は縁起物であることから、白梅という銘柄は全国に複数存在しました。地元で商売をしている間は問題がなかったのですが、天童市外、山形県外に販路を求めていくにつれ、出羽桜に一本化していくこととなります。

奈良時代より、山形県と秋田県(東北部除く)は出羽国と呼ばれており、日本の地方行政区分だった令制国の一つでした。明治元年十二月、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、出羽国は、現在の山形県に相当する羽前国と、秋田県に相当する羽後国に二分割されました。当時、初代清次郎は十歳と幼い頃でした。

出羽国はなくなりましたが、出羽という名は出羽三山を代表するように各地に残りました。初代清次郎も、幼い記憶ながらも出羽国に対する思い入れは強く、出羽国から「出羽」を、桜の名所として知られる舞鶴山から「桜」をとり、「出羽桜」と命名しました。地元の皆様に愛される酒でありたいという思いも込められています。

将棋の町である天童市は毎年人間将棋と呼ばれる催し物を行っています。約2000本の桜が咲き乱れる舞鶴山を舞台に、甲冑や着物姿に身を包んだ武者や腰元たちが、将棋の駒となり、プロ棋士の差し手に従って盤上を動きます。このように地元に根付いた桜から名前を頂いた出羽桜、地元の皆様が誇りに思えるような日本酒を醸していけるよう精進していく所存です。

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二代目仲野清次郎の歩み

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